老子 第1章(この世界の始原—「道」)

老子老子

第1章では、『老子』の思想をもっとも特色づける「道」のことが述べられています。世俗の生活の中で、起伏の多いその波間に揺られて喜んだり悲しんだり、私たちの多くは表面的な現象にふりまわされているのではないでしょうか。特に、競争が激しく世俗的な成功が良しとされ、目まぐるしく変化する現代社会では、万物の根源に目を向け、その水底の静かな深みを感得することは非常に難しくなっています。現象の奥底にひそむ微妙な根源世界、『老子』はそれを開示して、私たちをその深みへと誘うのです。しかも、(プラトンのイデア論と異なり)その世界は現実世界と別なのではないというところに『老子』の真骨頂はありました。

第1章

これこそが「道」だといって人に示せるような「道」は、一定不変の真実の「道」ではない。これこそが「名」だといって言い表すことのできるような「名」は、一定不変の真実の名ではない。
天地の始めは名がなく、名が付けられることで万物が生じた。
ゆえに、常に無欲で純粋であれば「道」の微妙で奥深いありさまが見てとれ、常に欲望の虜になっていれば「道」のさまざまな末端の現象が見えるだけである。
この二つのもの——微妙で奥深いありさまと、さまざまな末端の現象は、「道」という同じ根源から出てくるものであるにもかかわらず、異なった言い方をされる。
この同じ根源のことを、「玄」——はかり知れない深淵といい、その深淵のさらに奥の深淵から、あらゆる妙なるものが生じてくる。

みちの道とすきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に欲無くしてもっみょう、常に欲有りて以て其のきょうを観る。
の両者は、同じきよりでてしかも名をことにす。
同じきをこれげんい、玄のた玄は衆妙の門なり

道可道、非常道。名可名、非常名。
無名天地之始、有名万物之母。
故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其
此両者、同出而異名。同謂之玄、衆妙之門。

解説
これこそが「道」だといって人に示せるような「道」は、一定不変の真実の「道」ではない。
(道の道とすきは、常の道にあらず。)
(道可道、非常道。)

「道」はもともと道路の意味です。そこから道理・方法などの意味が生まれ、孔子を教祖とする儒家では、仁義などの道徳が人のよるべき道として掲げられました。「道の道とすきは、常の道にあらず」というのは、そうした儒家の提示する道を排斥したことばです。『老子』のいう「常の道」とは、単なる人間世界の約束ごとではなく、宇宙自然をも合わせつらぬく唯一絶対の根源的な道であって、それは「名」によってはあらわすことのできない究極の原理でした。『老子』を通して、「道」の説明が曖昧模糊として、時に詩的幻想的な表現となっていますが、それはむしろそうした形でしかあらわすことができないからでした。「道」とは「◯◯なものだよ」といった途端にそれは「道」からずれたものとなってしまうのです。

これこそが「名」だといって言い表すことのできるような「名」は、一定不変の真実の名ではない。
(名の名とすべきは、常の名にあらず。)
(名可名、非常名。)

「名」とは、名称、言語、概念の意味です。それはある実体に対してつけられて、一つの約束ごととして世間で通用することになりますが、ものの名称は本来どのようにもつけられるので、「名」は実体に対して二義的なものとなります。また「名」をもって実体を正確に捉えることは不可能です。例えば、はちみつを実際に知らない人にとって「はちみつ」ということばは意味をなしません。どれだけ言葉を弄して「はちみつ」を説明しようとも、はちみつを実際に食べたときのあの独特の感覚は絶対に掴むことはできないでしょう。物事の本質をことばであらわすことはできないのです。『老子』では全体を通して「無名」や「不信」が貴ばれ、ことばや概念の不信の念が強いことが読み取れます。「道」のあとに続いて、なぜ「名」が出てくるのでしょうか。もちろん、名付けようが「道」の性格との関連で出てくるのですが、ここにはまた名目にとらわれて、ことさらに「名」を立てようとする儒家や法家などに対する批判が込められています。

天地の始めは名がなく、名が付けられることで万物が生じた。
(名無きは天地の始め、名有るは万物の母。)
(無名天地之始、有名万物之母。)

人間がいない世界を考えてみましょう。その世界では、何事も区別を持ちません。椅子や机といったものの存在はあるでしょうが、そこ人間がいないとあらゆるものの区別がなくなり全てが一体となり、ある法則(これが「道」といえるでしょう)に則って運動を続ける一つの実体が存在するだけになるでしょう。その状態を天地の始めといっています。人間が名前をつけてものに区別をつけ始めることで、この世界に万物が生じたのです。

ゆえに、常に無欲で純粋であれば「道」の微妙で奥深いありさまが見てとれ、常に欲望の虜になっていれば「道」のさまざまな末端の現象が見えるだけである。
(故に常に欲無くして、常に欲有りて以て其のを観る。)
(故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其。)

「欲望にとらわれる」ことと「名をつけて区別する」ことには深い関係があります。「自分」と「他人」を区別することで、自分を他人より優れたものとしたいという利己的な欲求が生じます。同じ人間をという種族を「白人」と「黒人」ということばで区別することで、軽蔑しあったりいがみあったりして、挙句のはてに殺し合ったりします。「お金」という概念を生み出したことによって、お金を特別なものと思い込み、お金に換算できないものに目も向けず、お金を得るためだけに自らの人生をささげる人もいます。このように名に翻弄され、欲望にとらわれ、物事の本質を見ることができなくなっている人は、その表面的な現象の根源にある「道」の妙なる奥深いはたらきを感じ取ることができないのです。

この同じ根源のことを、「玄」——はかり知れない深淵といい、その深淵のさらに奥の深淵から、あらゆる妙なるものが生じてくる。
(同じきをこれい、玄のた玄は衆妙の門なり。)
(此両者、同出而異名。同謂之玄、衆妙之門。)

「この同じ根源」とは「道」のことを指しています。「玄」とはもともと色を染め重ねてできた赤黒い色のことをいい、その不可解な色調から転じて奥深いわかりにくいものをあらわすようになりました。ここでは、「道」が神秘的で奥深くとらえ難いものであること表現しています。「玄」を重ねて使用しているのは、「道」は「名」で表現することはできないからです。「玄」を重ねて使用することで、「道」は「玄」なるものであるが、その「玄」にもさらに奥行きがあるという、「道」と「万物」の間にある無限の重層性を表現しています。

老子の上篇は、この第1章が「道」で始まることによって道経とよばれ、下篇(第38章以下)の徳経と対しています。『老子』のことを『老子道徳経』ともいうのはそのためです。

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