第7章では、無私無欲となり「道」と一体になって自然な流れに身を任せていくことで、かえって自己を実現し、すべてを成し遂げる聖人のありさまが述べられる。我が身にこだわるのはやめよと、この章はいう。何事も自分を中心に考え、自分の思い通りになることを望むのは、人情である。おれがわたしがと、人を押し退けてその前に進みたいと思うのも、競争社会に養われた悪い癖である。そうしないと敗北者になってしまうという強迫感、哀れなちっぽけな人間の苦闘である。天地の悠久のはたらきと比べて、なんと儚いあがきだろうか。
天地自然の悠久の生命は、自分の永遠を求めたりするような、ちっぽけな意識を離れたところにこそある。第50章では、多くの人々は自分の生命を意識してあまりに生命を守ることに固執しすぎるがゆえに、自ら生命を縮めている、と述べられている。おれがわたしがと自分を剥き出しにしていると、敵できて足元をすくわれる結果にもなりかねない。自分を放ち棄てて無私になり、我欲を捨てて無欲になる、すなわち「道」とひとつになって自然な流れに身を任せていくなら、足元を救われることもなく、かえって自分という存在も確かなものとなるのだ。
第7章
天は永遠であり、地は久遠である。天地がそのように永遠悠久でありうるわけは、自分からその生命をのばそうとしないからである。だから、長く生き続けることができるのだ。
そういうわけで、「道」と一体になって天地の道理をわきまえた聖人は、我が身を人の後におきながら、それでいて自ずから先立ち、我が身を人の外側におきながら、それでいて自ずから人に招かれてそこにいる。それは、我が身をどうにかしようという意識がないからではないだろうか。だからこそ、かえって自己が実現しうるのだ。
天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、その自ら生ぜざるを以て、故に能く長生す。
是を以て聖人は、其の身を後にして而も身は先んじ、其の身を外にして而も身は存す。其の無私なるを以てに非ずや、故に能く其の私を成す。
天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。
是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私耶、故能成其私。
解説
天は永遠であり、地は久遠である。天地がそのように永遠悠久でありうるわけは、自分からその生命をのばそうとしないからである。だから、長く生き続けることができるのだ。
(天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、その自ら生ぜざるを以て、故に能く長生す。)
(天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。)
「自ら生ぜざる」は、無為自然のあり方のことで、自分から意識的に生み出そうとか生かそうなどと思わないことを意味する。天地は無為自然であるからこそ、長く続いているということを言っている。『老子』では、無為自然なありかたの例として、天地がしばしば用いられる(第5章 参照)。
そういうわけで、「道」と一体になって天地の道理をわきまえた聖人は、その身を退けることによって、誰よりも先に進み、自分を顧みないことで、逆に保身する。
(是を以て聖人は、其の身を後にして而も身は先んじ、其の身を外にして而も身は存す。)
(是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。)
ここでは、天地のありかたに引き続き、聖人の無為自然なありかたが述べられている。「其の身を後にし」「其の身を外に」するのは、あえて自らを取り立てようなどとは思わないさまを表す。それでいてかえって「身は先んじ」「身は存す」ることになるのは、『老子』によく現れる逆説的な表現である。『老子』にとって真実というものは、あえて表現しようとするならば、それは逆説的にならざるを得ないものであった。
それは、我が身をどうにかしようという意識がないからではないだろうか。だからこそ、かえって自己が実現しうるのだ。
(其の無私なるを以てに非ずや、故に能く其の私を成す。)
(非以其無私耶、故能成其私。)
「非以其無私耶」は、「非」と「耶」の二字で反語となっている。ここでは、天地が長く続いている理由が、自分からその生命をのばそうとしない無為自然なありかたにあったのと同様、聖人も自分の身をどうにかしようと思わないからこそ、自然と自己を実現することができるということを言っている。無私無欲であるのが、理想的なありかたであるとされている。無私無欲な人間は、自分から何かを成し遂げようと思わないからこそ、すべてを成し遂げるのである。
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