老子 第3章(理想の政治(1))

老子老子

第3章では理想的な聖人の政治が具体的に述べられています。人民を無知無欲に争いのない平和な状態を維持すること、それがその政治の眼目です。いわゆる愚民政治にも似ていますが、そうではありません。愚民政治の特徴といえる民衆を無知蒙昧にしておいてそれを利用しようとする賢しらが、聖人の心でないことは明白です。『老子』の立場はもっと広くて深いものです。無知無欲は単に政治の手段として考えられたものではなく、それは人間の理想的なありかたとして述べられているからです。そのため、無知無欲であることは為政者自身の理想の状態でもあり、聖人の性格にも連なるものでした。ここには、人間の作り上げる文化に対する強い批判が込められています。

確かに歴史を通して、人間の欲望を糧として生産性は高められ、知識の集積によって文明は発達してきました。私たちはそれを進歩と呼んでいます。そして、人類の幸福もまた、それに伴って増進されるものと信じられてきました。しかし、現代ではこのことに対する懐疑が次第に起こりつつあります。確かに文化の進歩は、生活を便利なものとし、幸福な生活のための基盤を作りました。それにも関わらず、私たちは依然として焦燥感にかられ、不安と懐疑に満ちた世界に生きています。今日でいえば、ロシア・ウクライナ戦争や中国・台湾問題など、理性的にみれば疑問にしか考えられないような問題も勃発しています。「進歩」とはなんなのでしょうか。理想的な社会のありかたとはどのようなものなのでしょうか。これに対し、『老子』は、知を棄て欲を去れ、と説きます。進歩をむやみやたら追い求めるのではなく、無知無欲の人々で満たされた静かな平和な世界の実現を夢みたのです。

第2章の解説でも紹介したのですが、レフ・トルストイの民話『イワンのばか』に、『老子』が述べたような「道」と一体となった聖人の政治が巧みに描かれています。主人公のイワンはばかなのですが、それゆえに悪魔の策略が通じず、逆に悪魔の力を手に入れてしまいます。その結果、イワンは一つの国の王となるのですが、イワンのばかさゆえに国民もみな無知無欲となります。この国を貶めようと、最も賢しらな老悪魔が罠を仕掛けるのですが、国全体がばかであるゆえにどうやっても貶めることができないのでした。『イワンのばか』はまさに『老子』の無為自然な聖人と国家のありかたを、一つの文学として巧みに表現した作品といえるでしょう。

第3章

為政者が才能あるものをとくに重用することをやめれば、人民が競争に熱をあげたりはしなくなる。為政者が手に入りにくい珍しい品を貴重だとするようなことをやめれば、人民は人のものを盗んだりはしなくなる。為政者が誰もが欲しがりそうなものに目を向けるのをやめれば、人民の心は乱されなくなる。
そういうわけで聖人の政治は、人民の心には余計な雑念がないように単純にさせて、その腹の方を空腹にならないようにいっぱいにする。また何かを成し遂げたいという志を弱めて、その肉体の筋骨の方を丈夫にする。こうして、常に人民を無知無欲の状態におき、あのさかしらな者たちが人民をたぶらかそうとしても、どうしようもないようにするのである。
このように「無為」をもって政治を行えば、万事うまく治まるのだ。

けんたっとばざれば、たみをして争わざらしむ。得難きのたっとばざれば、民をしてとうさざらしむ。欲するところ(所)を見さざれば、民の心をして乱れざらしむ。
ここを以て聖人のは、の心を虚しくして、其の腹を満たし、其の志を弱くして、其の骨を強くす。常に民をして無知無欲ならしめ、の知者をして敢えて為さざらしむ。
無為を為せば、即ち収まらざる無し。

不尚賢、使民不争。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不乱。
是以聖人之治、虚其心、実其腹、弱其志、強其骨。常使民無知無欲、使夫知者不敢為也。
為無為、則無不治。

解説
為政者が才能あるものをとくに重用することをやめれば、人民が競争に熱をあげたりはしなくなる。
ばざれば、をして争わざらしむ。)
(不尚賢、使民不争。)

「才能あるものを重用する」「尚賢」は、もともと墨家ぼくかの主張です。血縁や縁故にかかわりなく優秀な人材を抜擢せよという激しい主張であって、儒家その他の学派でもその影響を強く受けました。春秋戦国時代の諸侯たちもそれに従うようになって、諸氏百家の勃興となります。それは紛れもなく一つの進歩思想であるといえます。しかし、『老子』はそれに対して、民衆の競争心を掻き立てて世を混乱させるだけだと反対したのです。

こうして、常に人民を無知無欲の状態におき、あのしらな者たちが人民をたぶらかそうとしても、どうしようもないようにするのである。
常に民をして無知無欲ならしめ、の知者をして敢えて為さざらしむ。
(常使民無知無欲、使夫知者不敢為也。)

ここで表れる「あの賢しらな者たち」は、当時の諸氏百家の人々を意識して言ったのでしょう。人々がまったく無知無欲になってしまえば、他人の誘惑にのせられることなく、彼らの小賢しい知恵も手がかりがなくてどうしようもなくなるというのです。

このように「無為」をもって政治を行えば、万事うまく治まるのだ。
(無為を為せば、即ち収まらざる無し。)
(為無為、則無不治。)

ここで表れる「無為」を為すとは、矛盾した言葉であって、真意を把握するのには当然困難が伴います。しかし、『老子』の考える理想的なありかたは、そうした矛盾と思える逆説的な表現でなければ、表しようがなかったのです。したがって、「無為」は文字通り何もしないことではありません。何もしないようにみえて、「道」と一体となることによって、実は何もかも成し遂げているのです。

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