エーリッヒ・フロムについて①——その生い立ちと戦争の時代

エーリッヒ・フロム

本記事では、『自由からの逃走』や『愛するということ』を著したことで著名な社会心理学者エーリッヒ・フロムとはどういった人物なのか、その生い立ちとフロムに深く影響を与えた2度の世界大戦の観点から探索していきます。

なぜ今フロムを読むべきなのか

そもそも現代に生きる私たちが半世紀以上前に生きた思想家の考えを知るべきなのでしょうか。『嫌われる勇気』を著したことでよく知られる岸見一郎先生は、ご自身の著書で力強く次のように述べています。

エーリッヒ・フロムは預言者である。

さらに次のように続けます。

現代は、フロムが予言し警告を発していた通りの世界になってしまった。人間は資本主義社会の中で、「消費人」、「組織人」として目に見えるものであれ、見えないものであれ、あらゆる種類の権威に従い、それどころか自らがそのような権威に従っていること自体にすら気づいていない。本当の「自分」を持たず、「人」の顔色を伺い、「人の」意見に従い、「自分」の人生を生きられなくなってしまっている。戦争による人類滅亡の危機もいよいよその度を増している。

フロムは第二次世界大戦以前から、現代資本主義社会の本質をいち早く見抜き、人間を孤独にし、不安に陥れるその病理に厳しい警告を発していました。分析の目は鋭く、核心をついた批判は今なお全く古びていません。それどころか、フロムははるか先の時代を見据えていたので、彼の「予言」がある程度実現した今の時代に生きる我々にこそ一層リアルに響くことでしょう。その意味で、フロムは今こそ読まれるべき思想家なのです。

私はこのブログを通して、フロムが自身の著作を通じて私たちに何を伝えたかったのか、できる限りわかりやすく解説していきます。フロムの思想が成熟するまでの過程で、どのような出来事が彼に影響を与えたのか知ることは、彼の思想を知る上で非常に有益なものとなるでしょう。フロムはどのような人生を歩んだのでしょうか。

フロムの生い立ち

非合理な両親とユダヤの教え

エーリッヒ・フロムは1900年にドイツのフランクフルトで、ユダヤ人夫婦の一人息子として生まれました。先祖代々ラビの家系で、曽祖父も祖父も著名なラビでした。ラビとは、ユダヤ教における宗教的指導者・律法学者のことです。フロムの父親もラビとして生きることを望んでいたものの、願いが叶わず、不本意ながらも生活のために小さな果実酒店を営んでいました。

フロムの父親は、フロムを過剰に甘やかし、神経症的で極度の心配性であり、気分にむらがあったと言われています。フロムは若い頃、ユダヤ教の聖典であるタルムードを学び、タルムード学者になりたいと考えていましたが、父親はそれを許しませんでした。

母親との関係も父親との関係に劣らず厄介なものでした。彼女は抑うつ的、自己愛的だったと言います。フロムは、なんでも自分に引き寄せようとする母親の自己愛的な性質からも容易に逃れることができず、よく泣く母を父から守らないといけないと考えていました。

この過剰に心配性の両親の一人息子として育ったことは、フロムに積極的な良い影響を与えることはありませんでした。フロムは、この「損害」を時間をかけて修復しなければならなかったのです。

フロムの成長に積極的に貢献したのは、先祖代々ラビの厳格な正統ユダヤの家族に生まれ育ったことでした。フロムは、自分が生まれ育ったユダヤ社会の生活感情と精神を、当時の社会の風潮とは区別して、前市民社会的、前資本主義的、中世的社会と呼びましたが、この古い伝統は、フロムにとっては実際に彼が生きている世界、二十世紀の世界よりもずっと現実的に思われました。フロムにとっては、魂の救済こそが最も重大な課題とされるユダヤ世界は、真の意味で宗教的な世界でした。しかし、近代の世界は金儲けを追求します。フロムは子供の頃から、金儲けのために生きることは人生を失うこと、魂の救済を放棄することだと感じていました。父親が本当はなりたかったラビにならず、家族を養うために商売をしていることもフロムには「本当の生き方」を避けているように見えたのでしょう。フロムは次のように述べています。

私は、目標ができるだけ多くのお金を儲けることである世界の中で、いつも自分が少しよそ者だと感じていた。私は半分はこの古代ユダヤの真性の伝統と、半分は近代世界の中に生きた。

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このように、フロムが近代資本主義社会の鋭い批判者となったことの背景には、彼の深い、宗教的な感情の持つ大きな影響力がありました。

フロムは神経症的な家庭で育ったことが、人間の行動の非合理性に強い関心を抱くきっかけの一つとなったと言っています。

若く美しい女流画家の死

さらに、フロムは12歳の時に、人間の行動の非合理性に対する関心に大きな影響を与える事件に遭遇します。それは、彼の家と親しくしていた一人の女流画家に関する事件でした。彼女は25歳ぐらいで、魅力的で美しい人であったと言います。一度婚約したが、しばらくして婚約を解消し、妻と死別していた父親と一緒に暮らしていました。フロムの記憶によれば、その父親は年老いて、面白くもない貧相な男だったと言います。一方で、そう思ったのは、嫉妬のせいでバイアスがかかっているからだったかもしれないともフロムは述べています。フロムはその女性に強く惹かれていたのです。

ある日、フロムは衝撃的な知らせを受けます。彼女の父親が死んだ直後、父親と一緒に埋葬してほしいという遺書を残し、彼女もすぐに後を追い、自ら命を絶ったのです。その頃、フロムはまだエディプス・コンプレックスのことも、娘と父の近親相姦的な固着についても聞いたことがありませんでした。それまで自殺した人を他に誰も知らなかったので、「どうしてこんなことがありうるのか。若くて美しい女性がこんなにまで父親を愛し、生きて絵を書く喜びより、父親のそばに埋葬されることを選ぶというようなことが、どうしてありうるのか」という考えが頭から離れなくなったと言います。このような行動の背後にある動機を知ろうと思い始めたフロムには、後に知ることになったフロイトの理論にこそ、この事件への答えがあるように思われたのです。

戦争の時代

第一次世界大戦

フロムの成長を決定づけることになったもう一つの大きな事件は、1914年、彼が14歳の時に勃発した第一次世界大戦でした。それは彼の教師たちについて経験したことでした。彼の学校のラテン語の教師は、戦争が始まる2年前までは好んで「平和を欲するなら戦いに備えよ」というラテン語の格言を口にしていたと言います。平和を維持し戦争を起こさないためには、戦争への備えをしておかなければならないという武装的平和論者だったのです。ところが、いざ戦争が始まるとその教師は戦争が始まったことに対して喜んだと言います。フロムは、平和の維持に常日頃から心を傾けていたはずの人が、一転して戦争を歓迎するのはなぜだろうかと考えさせられることになりました。

また、当時ドイツ全土に広まっていた、イギリス人に対するヒステリックな憎しみにもショックを受けました。突然、イギリス人は悪者で良心のかけらもなく、我がドイツの罪のないあまりに人を信じやすい英雄たちを殺そうとしている、金で雇われた低級な兵隊ということになったからです。フロムはこのことに関連して、次のように述べています。

この全国的なヒステリーの最中のある決定的な事件が記憶に残っている。英語の授業でイギリス国家を暗唱する宿題が出たのだ。この宿題は夏休み前のまだ平和だった時に出されたものだった。休みが終わり授業が再び始まった時、生徒たちは先生に、半分はいたずら気分で、半分は「憎きイギリス」ムードに冒されていたので、今や最悪の敵の国家を暗唱するのは嫌だと申し出た。その時、生徒の前に立って、抗議に対して皮肉な微笑みを浮かべた先生が今でも目に浮かぶ。先生は落ち着いた口調で言った。「冗談じゃない。イギリスは今まで一度も戦争で負けたことはないのだ」と。

Beyond the Chains of Illusion

それは狂った憎悪の真っ只中で語られた正気とリアリズムの声だったとフロムは言います。この一言、そしてこれが落ち着き払って理性的に語られたことはフロムには啓蒙の光となりました。

それは、憎しみと国をあげての自己礼賛の狂気のパターンを打ち破り、私に「どうして、人間の行動はこれほどまでに合理的でないのだろうか」と考えさせることになった。

Beyond the Chains of Illusion

成長するにつれて、戦争に対するフロムの疑惑は増大していきました。誰もが自分は戦争を欲しないと言っているのに、なぜ戦争は起きたのか。両陣営とも侵略の意図はなく、自国領土の保全を目的としているに過ぎないと言っているのに、戦争が続くのはなぜなのか。なぜ僅かの領土と少数の指導者の虚栄心のために、数百万の兵士が虐殺されることになったのか。戦争は無意味な偶発的事件の結果なのか。それとも、それ自身の法則に従うある社会的、政治的発達の結果なのか。戦争についての疑問が大きくなっていきました。フロムは次のように述べています。

1918年、戦争が終わった時、すでに青年になっていた私は、ひどく困惑し、どうして戦争が起こるのかという疑問、つまり人間の集団行動の非合理性を理解したいという願いと、平和と国際的相互理解に対する熱情的欲求に取り憑かれていた。その上、全ての公認のイデオロギーと公式宣言の類に対して、極度に懐疑的となり、「一切のことについて疑わねばならぬ」という確信に満たされていた。

阪本健二・志貴晴彦訳『疑惑と行動』東京創元社

フロムの大学時代—精神分析学との出会い

第一次世界大戦が終焉を迎えた年、フロムはフランクフルト大学で法律を専攻していましたが、「法律には自分の望んでいる学びはない」と考えて一年で大学を自主退学し、その後、ハイデルベルク大学で、社会学、心理学、哲学を学びます。大学で様々な分野の学問を学ぶとともに、ユダヤ人コミュニティにも積極的に参加し、多くの知識人との交流を深めていきます。そんな中でフロイトの精神分析学と出会った彼は、人間の心理に強い興味を抱くようになり、やがては精神分析学の研究に没頭するようになります。フロムの思想の根底にあるのは、この精神分析学です。いずれは精神分析学を解説した記事も書こうと考えているのですが、ここではフロムの思想を理解するのに必要最低限の基本的な事柄だけ説明しましょう。

精神分析学とは

精神分析学は、ウィーンの開業医だったジークムント・フロイトが始めたものです。精神分析学がそれまでの心理学の理論と決定的に異なる点は、無意識の渇望を経験的にしかも詳細に研究し、人間の動機の学説の基礎を固めたという点です。無意識の概念自体は、一般的な形ではライプニッツおよびスピノザの時代から見られますが、それは19世紀までのあらゆる心理学と同じく抽象的なものであり、その理論を経験的研究と人間に関する新しい資料の探求とによって吟味する方法を欠いていました。フロイトは自由連想、夢、失敗、感情転移の分析というこの新しい方法によって、従来は自己の知識と内省だけによって把握された「私的」な資料を、被分析者と分析者との交渉を通すことによって、「公的」な証明可能なものとすることができるようになりました。精神分析学の方法はこうして、他の方法によっては観察のできない現象に近づいていくことを可能にしたのです。同時にそれは、抑圧され、意識界から追いやられているために、内省によっても知り得ない情緒的体験を明るみにもたらすものでした。

初期のフロイトは主として神経症的徴候を研究しました。しかし、精神分析学が進むに従って、神経症的徴候を深く理解するためには、まずその基盤を成している性格構造を理解しなければならないことが次第に明らかになってきました。その結果、神経症の徴候というよりは、神経症的性格が精神分析学の理論と治療の主要な対象となったのです。フロイトが神経症的性格を研究したことが、のちの性格学に新しい基礎を与えることになり、二十世紀を代表する最も重要な思想の一つとなりました。

ナチズムからの亡命

精神分析や心理学の研究に没頭したフロムは、30歳の時にフランクフルト社会研究所の社会心理学部長に就任しますが、この頃のドイツ国内には、何やら不穏な空気が漂い始めていました。国家社会主義(ナチズム)を唱えるヒトラーが、徐々に国内で力を持ち始めていたのです。

ナチズムの根本にあるのは、権威によって人民を厳しく統制し、ナショナリズムによる強い国家を作っていこうという思想です。自由主義、民主主義、議会政治を否定しただけでなく、彼らは優生思想に基づいて、ユダヤ民族に対する弾圧を強めていきました。また、ナチスは精神分析学を危険思想と見做し、フロイトの著作を焚書します。

1933年、ついにナチスが政権を握り、ドイツ国内はファシズム一色に染まってしまいます。フロムが在籍していたフランクフルトの研究所は、国家に敵対する組織とみなされたため、1934年に研究所のメンバーはアメリカに亡命することになりました。フロムは一足先に、シカゴの精神分析研究所に招聘されてアメリカに渡っていたため、その後に起こった、狂気とも言えるナチスによるユダヤ人への弾圧や大虐殺は体験せずに済みましたが、ドイツ国民が自由を捨てて、ファシズムへとどんどん傾倒していく危うい状況は、肌で感じていたことでしょう。

ファシズムを体験したフロムは、以前にも増して「戦争はなぜ起こるのか、なぜ人間は非合理な行動に向かうのか」と、人間の本質と社会の関連についてさらに深く問いかけるようになっていきます。それにつれて彼の興味は、フロイト理論から、マルクス思想へと移っていきました。「資本論」を著した、あの経済学者カール・マルクスです。「心理や精神だけを研究していても社会変革は望めない。社会制度のあり方をあらためて見直し、そこから人間の行動原理を探っていくことも必要だ」と考えるようになっていったのです。

まとめ

本記事で、フロムの人間の非合理性を解明したいという強い要求は、彼の少年時代の出来事と2度の世界大戦に由来するものであることを明らかにしていきました。第二次世界大戦の頃から、フロムは一刻も早く現代の危機を理解するするのに役立つ事柄を提供せねばならぬという使命感にかられ、本の執筆を始めます。そうしてまず生まれたのが『自由からの逃走』でした。その後、『人間における自由』や『愛するということ』など数多くの著作を残しています。彼の代表的な著作は「エーリッヒ・フロムについて②——主な著作」で簡単に紹介しています。またそれぞれの著作の詳しい解説も本サイトで公開する予定です。ご興味のある方はぜひ読んでみてください。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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