愛するということ②——愛の理論

エーリッヒ・フロム

「愛するということ①——愛は技術か」では、愛は誰もが安易に浸れるような感情の一種などではなく、各個人が知力と努力をもって磨く必要のある技術であることを述べた。一般に技術を習得するには、理論に精通した上で修練を積む必要がある。本記事では、エーリッヒ・フロムによる著書『愛するということ』にもとづき、愛は技術であるという前提のもと、その理論的側面を説明する。

愛の理論を語るには

フロムは愛の理論を語るにあたり、まず以下のように述べる。

愛に関するどんな理論も人間の理論から、つまり人間の実存についての理論からはじめなければならない。

エーリッヒ・フロム(1956)『愛するということ』鈴木晶 訳、紀伊國屋書店

ここで表れる「実存」は哲学用語で、「人間の実存」といえば、人間に固有の自意識と死の認識を持った主体的な存在形式のことを指す。すなわち、愛を語るには人間存在のもつ特殊性から始めなければならないということだ。

人間存在の特殊性

人間と人間以外の動物は本質的に異なる存在である。人間は動物界から、すなわち環境に対して本能的に適応する世界から抜け出し、自然を超越した。しかし、人間が完全に自然から離れることはなく、あくまで自然の一部である。その特殊な存在形式がまさに人間の実存である。

人間は理性を授けられている。人間は自分自身を知っている生命である。人間は自分を、仲間を自分の過去を、未来の可能性を意識している。人間はたえずこのように意識している——人はひとつの独立した存在であり、人生は短い。人は自分の意志とは関わりなく生まれ、自分の意志に反して死んでいく。個人は自然や社会の圧倒的な力の前では無力だ、と。こうしたことすべてのせいで、人間の孤立無縁な生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、自らを他人や自然と何らかの形で結びつけない限り、人は正気を失ってしまうだろう。人間存在の特殊性ゆえに、人間は孤独を感じ、孤独に対する強い恐怖が生じるのである。

いかに孤立を克服するか

どの時代のどんな社会においても、人間は同じ一つの問題の解決に迫られてきた。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人の生活を超越して他者と一体化するか、という問題である。人間はこの問題を解決するために、歴史を通してさまざまな解決方法をとってきた。それは大きく、興奮状態による合一同調にもとづいた合一、あるいは創造的な活動に分けることができる。

興奮状態による合一

熱狂的な興奮状態に陥ることで人間は一時的に孤独であることを忘れることができる。高揚した状態に至るために、しばしば酒・麻薬・セックスなどが用いられる。また、そこに他者が介在するとよりいっそう効果は高まる。現代でいうとたとえば、大酒を飲みながら居酒屋で馬鹿騒ぎをしたり、クラブで踊り狂ったり、パブリックビューイングでスポーツ観戦したりすることなどが挙げられるだろうか。

セックスは酒や麻薬と異なり、ある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法であり、孤独の問題に対する部分的な答えである。しかし、それが愛するがゆえのセックスでないならば、酒や麻薬にふけるのとあまり違わない。愛のないセックスは、男と女のあいだに横たわるくらい川にほんの束の間しか橋をかけないからである。

興奮状態による合一体験には、それがどんな形であれ、3つの共通する特徴がある。第一に強烈であり、ときには激烈ですらある。第二に精神と肉体の双方にわたって、人格全体に起きる。第三に、長続きせず、断続的・周期的に起きるということである。

同調にもとづいた合一

興奮状態による合一に対し、過去においても現在においても、人間が孤立感を克服する解決法としてこれまで最も頻繁に選んできた合一の形態は、集団、慣習、しきたり、信仰への同調にもとづいた合一である。同調することで、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることができる。もし私がみんなと同じになり、他の人と違った思想や感情をもたず、習慣においても服装においても思想においても、集団全体に同調すれば、私は救われる。孤独という恐ろしい経験から救われる。

同調によって孤独を解消するこの方法は、『自由からの逃走』において述べられた逃避のメカニズム「権威主義」と「機械的画一性」に大きく関連している。興奮状態による合一と異なり、集団への同調による一体感は、強烈でなく穏やかで惰性的、そして断続的でなく長続きする。

確かに同調は、一時的・表面的には孤独を癒す。しかし、社会に同調しきった人間は、以下のことを忘れてしまう。すなわち、自分が唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスを与えられているということ、自分の人生を生きることができるのは自分しかいないことである。

創造的な活動

一体感を得る第三の方法は、創造的活動である。これには芸術的なものもあれば、職人的なものもある。どんな種類の創造的活動でも、創造する人間は素材と一体化する。大工がテーブルを作る場合であれ、農民が穀物を育てる場合であれ、画家が絵を描く場合であれ、どんなタイプの創造的活動においても、創造する者とその対象は一体となり、人間は創造の過程で世界と一体化する。

ただし、このことが当てはまるのは生産的な仕事、つまり自分で計画し、生産し、自分の目で仕事の結果を見るような仕事のみである。生産的な仕事は現代ではほとんど見られない。労働者は資本主義社会の一歯車となり、与えられた仕事をただこなすだけである。この場合は、同調以上の一体感は得られない。

孤立を克服する完全な答えとは

創造的活動で得られる一体感は、人間同士の一体感ではない。興奮状態によっては一時的にしか孤独を忘れることができない。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。そのため、いずれも、実存の問題に対する部分的な回答でしかない。完全な答えは、人間同士の一体感、他者との融合、すなわち愛にある

愛、それは人間の実存に対する答え

成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間の中にある能動的な力である。人を他の人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままである。自分の全体性を失うことはない。愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりであり続けるというパラドックスが起きる。

与えること

愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、ということができる。与えることとは何か。与えることは、自分のもてる力の最も高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分のもてる力と豊かさを実感する。与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということができる。たくさんもっている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。ひたすら貯めこみ、何かひとつでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんのものを所有していようと、心理学的にいえば、貧しい人である。気前よく与えることのできる人が、豊かな人なのである。豊かな人は自分は自分のものを他人に与えられる人間なのだと実感する。

しかし、与えるという行為の最も重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのか。それは自分自身、自分の一番大切なもの、自分の生命だ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなく、自分の中に息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいていうものすべてを与えるのだ。

愛は愛を生む

このように人は自分の生命を与えることで他人を豊かにする。そして、自身を活気づけることで他人を活気づける。もらうために与えるのではない。与えること自体がこの上ない喜びなのだ。だが、与えることによって、必ず他人の中に何かが生まれる。その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。本当の意味で与えれば、必ず何かを受け取ることになる。与えることは、他人をも与える者にする。互いに相手の中に芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うのだ。与える行為の中で何かが生まれる。与えた者も与えられた者も、互いのために生まれた生命に感謝する。

特に愛に限っていえば、こういうことになる——愛とは愛を生む能力であり、愛せなければ愛を生むことはできない

成熟した愛に共通する基本的要素

愛の能動的な性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。どんな形の愛にも、必ず共通する基本的要素がいくつか見られるが、ここにも、愛の能動的な性質があらわれている。その要素とは、配慮責任尊重である。

配慮

愛に配慮が含まれていることを一番はっきり示しているのは、子供に対する母の愛である。もし、ある母親に子どもに対する配慮が欠けているのを見てしまったら、つまり子どもに食べ物をあげたり、快適な環境を与えたりするのを怠っているのを見てしまったら、たとえその母親が子どもを愛していると言ったとしても、その言葉を信じることはできないだろう。反対に、母親が子供のことをあれこれ気遣っているのを見れば、その愛に心打たれるだろう。愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。

責任

今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押し付けられるものとみなされている。しかし本当の意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、口に出すにせよ暗黙のうちであれ、何かを求めてきたときに、応答することである。「責任がある(responsible)」ということは、他人の要求に応じる(response)ことが可能(-ible)であるという意味である。愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、仲間にも責任を感じる。この責任は、母子関係についていえば、生理的要求への配慮を意味する。大人同士の愛の場合は、相手の精神的な求めに応じることである。

尊重

愛の第三の要素である尊重が欠けていると、責任は容易に支配や所有へと堕落してしまう。尊重は恐怖や畏怖とは違う。尊重とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。尊重とは、他人がその人らしく成長発展していくように気遣うことである。いうまでもなく、自分が自立していなければ、人を尊重することはできない。

人を尊重するには、その人のことをまず知る必要がある。その人に関する知によって導かれなければ、配慮も責任もあてずっぽうに終わってしまう。いっぽう知も、気遣いが動機でなければ虚しい。他人に関する知にはたくさんの層がある。愛の一側面としての知は、表面的なものではなく、核心に届くものである。自分自身に対する関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときに初めて、その人を知ることができる。

配慮、責任、尊重、知は互いに依存し合っている。この一連の態度は、成熟した人間にのみ見られるものだ。成熟した人間とは、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的な活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人のことである。

愛の対象

愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛のひとつの「対象」に対してではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。もしひとりの他人だけしか愛さず、他の人々には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共棲的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものに他ならない。ひとりの人を本当に愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。ただし、愛がひとりだけではなくすべての人に対する態度であるといっても、愛する対象によって愛にもさまざまな種類があることもまた事実である。

友愛

あらゆるタイプの愛の根底にある最も基本的な愛は、友愛である。友愛とは人類全体に対する愛であり、その特徴は排他的なところが全くないことである。もし愛する能力が十分発達していたら、仲間たちを愛さずにはいられない。人は友愛において、全ての人間との合一感、人類としての連帯意識、人類全体がひとつになったような一体感を味わう。友愛の底にあるのは、私たちはひとつだという意識である。すべての人間がもつ人間的な核は同一であり、それに比べたら、才能や知性や知識の違いなどは取るに足らない。

親の愛

友愛は対等な者どうしの愛だが、親と子の関係はその本質からして、一方がひたすら助けを求め、一方がひたすら与えるという不平等な関係である。親の愛では、徹底した利他主義、すなわちすべてを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力が求められる。そこに、親の愛の難しさがある。

子供が無力で親の世話がないと生きていけないうちは、比較的容易に利他的に行動することができる。それは動物的な本能や、新たな生命の創造者としての自負などによる。しかし、子どもが自我を発達させ、ひとりの人間として自立していくにつれ、子どもに見返りを求めずひたすら与えることが難しくなっていく。多くの親が、親の愛というつとめに失敗するのもこの段階である。成熟した人間、すなわち受け取るよりも与えることにより大きな幸せを感じ、自分の存在にしっかり根を下ろしている人だけが、子どもが成長し離れていく段階になっても愛情深い親でいられるのだ。

恋愛

恋愛とは、他の人間と完全に融合したい、ひとつになりたいという強い願望である。恋愛は、友愛や親の愛とは異なり、その性質からして排他的である。恋愛に見られる排他性は、しばしば所有欲にもとづく執着だと誤解されている。「愛し合っている」ふたりが他の人には目もくれないということはよくある。実は彼らの愛は利己主義が二倍になったものにすぎない。ふたりは互いに相手に自分を同一化し、ひとりをふたりに増やすことで孤立の問題を解決しようとする。それによって彼らは孤独を克服したと感じるが、彼らふたり以外のすべての人から孤立している。そのため、ふたりが味わう一体感は錯覚に過ぎない。

確かに恋愛は排他的である。しかし恋愛において、人は相手を通して人類全体、さらにこの世に生きているものすべてを愛する。恋愛は、ひとりの人間としか完全に融合することはできないという意味においてのみ、排他的なのである。恋愛は、性的融合、すなわち人生のすべての面において全面的に関わり合うという意味では、他の人に向けられた愛を排除する。しかしだからといって、深い友愛を排除することはない。

友愛においては、私たちはすべての人を同じように愛する。だがそれと同時に私たちは一人ひとり異なった唯一無二の存在である。この独自性が恋愛では重要となる。恋愛においては、相手がひとりの唯一無二の存在であることを深く理解し、その独自性ゆえに愛するのだ。

自己愛

現代では、他人を愛するのは美徳だが、自分を愛するのは罪だという考えが広く浸透している。しかし心理学的には、他人に対する態度と自分に対する態度は、結びついていることがわかっている。すなわち、他人への愛と自分への愛は二者択一ではない。それどころか、自分を愛する態度は、他人を愛することのできる人すべてに見られる。自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。もしある人が生産的に愛せるなら、その人は自分のことも愛している他人しか愛せない人は、愛することが全くできないのである。

自分への愛と他人への愛が基本的につながっているとしたら、利己主義をどう説明したらよいだろうか。利己的な人は自分にしか関心がない。なんでも自分のものにしたがり、与えることには喜びを感じず、もらうことにしか喜びを感じない。利己主義と自己愛とは、同じどころか正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、その人は自分を憎んでいるのである。利己的な人は生産性に欠けている。そのせいで、その人は空虚感と欲求不満から抜け出すことができない。自分を愛しすぎているかのように見えるが、実際には本当の自己を愛せないことをなんとか埋め合わせ誤魔化そうとしているのだ。

まとめ

本記事では、エーリッヒ・フロムによる著書『愛するということ』にもとづき、「愛の技術」の理論的側面を説明した。愛は、人間が普遍的に抱えてきた問題、すなわち孤立を克服するための完全な回答である。そして、愛とは能動的に自分を与えることであり、そこには基本的な要素として、配慮・責任・尊重・知がある。また、愛とは特定の人間に対する関係ではない。世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度なのである。

「愛するということ③——愛の修練」では、理論を理解するよりもはるかに難しい問題、すなわち愛の技術の修練という問題に立ち向かう。興味のある方は、ぜひそちらも読んでいただきたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました