第5章では、天地自然と聖人のありかた、すなわち無為自然のはたらきには儒家のいう仁の徳などはないことを述べています。天地自然のはたらきは、仁の徳などに縛られたものではなく、それを超えた、非情なはたらきです。聖人の政治も同じことで、からっぽの無心でいて、不必要に言葉を用いないものだといいます。為政者が言葉を巧みに用いて、治めようとするときには注意が必要です。政治を意識させない政治が、本当の平和な政治なのでしょう。
第5章は3段に分かれていますが、もとはそれぞれ独立した文章であったといいます。そのため、第2段は第1段の前半をうけて天地の生成を述べたものとして解釈し、第3段はより一般に処世的な多言のいましめとして解釈しています。
第5章
天地には仁愛などはない。万物をわらの犬のように扱う。聖人には仁愛などはない。人民をわらの犬のように扱う。
天と地とのあいだは、ふいごのようなものであろうか。からっぽでありながら尽きることはなく、動けば動くほど、ますます生まれ出てくる。
言葉が多いとしばしばゆきづまる。心をからっぽにしているのが一番良いのだ。
天地は仁ならず、万物を以て蒭狗と為す。聖人は仁ならず、百姓を以て蒭狗と為す。
天と地との間は、其れ猶お橐籥のごときか。虚しくして屈きず、動きて愈々出ず。
多言は数々窮す、中(盅)を守るに如かず。
天地不仁、以万物為蒭狗。聖人不仁、以百姓為蒭狗。
天地之間、其猶橐籥乎。虚而不屈、動而愈出。
多言数窮、不如守中。
解説
天地には仁愛などはない。万物をわらの犬のように扱う。聖人には仁愛などはない。人民をわらの犬のように扱う。
(天地は仁ならず、万物を以て蒭狗と為す。聖人は仁ならず、百姓を以て蒭狗と為す。)
(天地不仁、以万物為蒭狗。聖人不仁、以百姓為蒭狗。)
「仁」は儒家の提唱した慈愛の徳目のことをさしており、ここはそれに対抗した言葉です。「聖人は仁ならず」というのは、儒家的な聖人像を思う人々の意表をつくことばであって、当時でも衝撃的な響きをもっていたに違いありません。「蒭狗—わらの犬」というのは、祭礼に用いられるもので、祭りの間は手厚く並べられるが、祭りがすむとわらくずとして淡々と捨てられます。無為自然のはたらきが、人情や徳目を超えた非情なものであることを述べようとする喩えです。
天と地とのあいだは、ふいごのようなものであろうか。からっぽでありながら尽きることはなく、動けば動くほど、ますます生まれ出てくる。
(天と地との間は、其れ猶お橐籥のごときか。虚しくして屈きず、動きて愈々出ず。)
(天地之間、其猶橐籥乎。虚而不屈、動而愈出。)
「橐籥—ふいご」は、鍛冶屋や鋳物師が火力を上げるのに使う送風機のことです。からの箱あるいは袋で、取っ手を押したり引いたりして強い風を送り出します。からっぽであるからこそ、いくらでも空気が入ってまた風になって出てくるのです。『老子』は、天地の間の無為自然なはたらきを、ふいごに喩えました。「屈」は尽き果てることをいい、「愈」は持続的に程度が高まるさまを指します。
言葉が多いとしばしばゆきづまる。心をからっぽにしているのが一番良いのだ。
(多言は数々窮す、中(盅)を守るに如かず。)
(多言数窮、不如守中。)
ここでは「多言」は言葉が多いこととして解釈していますが、政令が繁多であることとする解釈もあります。言葉にした時点で、本質から少しずれたものとなってしまいます。例えば「このりんごは赤い」というとき、そのりんごがもつ微妙な色のトーンや黒い斑点など、数多くの情報を捨て去ることで、りんごの赤みを表現しています。そのりんごそのものが持つ独自性は表現できないのです。言葉にはこういった限界があるため、言葉を多く用いると、ずれが蓄積し、実際の現実から大きくかけ離れたものとなってしまうことがあるのです。そうするくらいなら、言葉を不必要に用いず、心を空っぽにして現実をありのままにとらえる方が良いのです。
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