愛するということ①——愛は技術か

エーリッヒ・フロム

本記事では、社会心理学者エーリッヒ・フロム(1900-1980)の『自由からの逃走』に並ぶ名著として知られる『愛するということ』をもとに、「愛」とはなんなのか、そしてなぜこれほどまで多くの人が愛に飢えているにもかかわらず、真の愛はほとんど見当たらないのか探索していきます。

『自由からの逃走』——そして「愛」へ

フロムは『自由からの逃走』において、人は自由になるにつれてより独立し自立した存在になると同時に、必然的に安定が失われ、孤独や無力感が増大してくると主張しました。意識的にせよ無意識的にせよ、多くの人はそういった孤独や無力感を乗り越えるために、新たに服従を求め自ら自由を捨て去るという道をとります。しかし、それは本質的な解決にはなりません。表面的一時的には孤独や不安を取り除くかもしれませんが、抑圧された感情は新たな不幸となって表出し、その人を苦しめることになるからです。

本当の意味で自由で幸福になるためには、フロムのいう「積極的な自由」を実現することが大切なのです。そしてそれは、愛や生産的な仕事を通して自らを自然や他人に結びつけることによって可能になります。人類が戦争や差別といった諸問題を解決し、新たな次元へと歩みを進めるために、フロムは「愛」を非常に重要なものとして捉えていました。しかし、フロムにとっての「愛」とは現代の多くの人が考えているような誰もが努力をせずに浸れることのできるような安直な感情などではありません。彼は「愛」を、各個人が尽力して磨くべき技術だと考えていました。フロムは『愛するということ』の冒頭で次のように述べています。

愛するという技術について安易な教えを期待してこの本を読む人は、がっかりするだろう。この本は、そうした期待を裏切って、こう主張する——愛は、「その人がどれくらい成熟しているかとは無関係に、誰もが簡単に浸れる感情」ではない。この本は読者にこう訴える——人を愛そうとしても、自分の全人格を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、けっしてうまくいかない。

『愛するということ』鈴木晶 訳、紀伊國屋書店

現代では多くの人が愛に飢えていることは明らかです。そして同時に多くの人は満足に愛することができていません。にもかかわらず、「愛について学ばなければならないことがある」と考えている人はほとんどいません。この奇妙な思い込みは、どこからくるのでしょうか。

現代社会にはびこる「愛」に対する誤解

この奇妙な思い込みは、いくつかの誤解の上に立っています。それらの誤解が、個別に、あるいはいくつか組み合わさって、その思い込みを支えているのです。

誤解1——「いかに愛するかよりも、いかに愛されるかの方が重要だ」

たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、つまり愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えています。つまり、人々にとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということです。この目的を達成するために、主に男性は社会的に成功し、富と権力を手に入れることに注力し、主として女性は外見を磨いて自分を魅力的にすることに注力します。実際、現代社会のほとんどの人が考えている「愛される」というのは、人気があることと、セックスアピールがあるということを合わせたようなものになっています。

誤解2——「愛は対象の問題であって能力の問題ではない」

多くの人々は考えています——愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいはその人に愛されたいと思えるような相手を見つけるのは難しい、と。このような考え方には、現代社会の発展と関連したいくつかの理由があります。まず、20世紀になってから、自由恋愛という概念が広く広まり、愛する能力よりもその対象の重要性が増しました。このことによって、愛する対象が自分にふさわしい人物であれば、愛は自然と生じるという幻想が生まれてきたのです。この要因と密接に関連して、『自由からの逃走』において述べられたように、資本主義の発展によって人間同士の関係そのものが、市場の性質を帯びてきました。ふたりの人間は、自分の交換価値の上限を考慮した上で、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちるのです。

誤解3——「愛とはすなわち恋に落ちることである」

愛について学ぶべきことは何もない、という思い込みを生む第3の誤りは、恋に「落ちる」というという最初の体験と、愛する人とともに生きるという持続的な状態とを、混同していることです。それまで赤の他人どうしだったふたりが、互いを隔てていた壁を突然取り壊し、親しみを感じ、一体感を覚える瞬間は、生涯を通じて最も心躍り、胸のときめく瞬間でしょう。多くの人は、このような互いに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思い込んでしまうのです。しかし、実はそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているに過ぎないかもしれません。

愛は技術である

私たちは、愛とは誰もが簡単に浸れる感情などではなく、各個人が尽力して習得すべき技術なのだと理解する必要があります。一般に技術を習得する過程は、便宜的に二つの部分に分けることができます。一つは理論に精通すること、もう一つはその修練に励むことです。もし医学を習得したければ、まず人体やさまざまな病気についての多くの事実を学ばなければなりません。しかし、そうした理論的知識をすべて身につけたとしても、それだけで医学を身につけたことにはなりません。実際の体験をたくさん積んで、理論的知識の集積と実践の結果が一つに融合し、自分なりの直感が得られるようになったときにはじめて、医学を習得したといえるのです。この直感こそがあらゆる技術の本質なのです。

しかし、理論学習と修練の他に、どんな技術を身につける際にも必要な第3の要素があります。それは、その技術を習得することが自分にとって究極の関心ごとでなければならない、ということです。ここに、現代社会に生きる人々は明らかに失敗を重ねているにもかかわらず、どうして愛するという技術を学ぼうとしないのか、という疑問に対する答えがあります。現代人は心の底から愛を求めているにもかかわらず、愛よりも重要なことは他にたくさんあると考えているのです。成功、名誉、富、権力、これらの目標を達成する術を学ぶためにほとんどすべてのエネルギーが費やされてしまうために、愛の技術を学ぶエネルギーが残っていないのです。

まとめ

本記事では、愛の問題を取り上げました。「愛」とは技術であって、この技術の習得を自分にとっての究極の関心ごととして捉え、その理論に精通し、修練に尽力することによってはじめて、習得できるものなのです。次の記事「愛するということ②——愛の理論」では、愛とは何か、人間の実存的な観点から深掘りし、愛の本質に迫っていきます。ご興味のある方は、ぜひそちらもご覧ください。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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